PLACE OF VALUE 価値の在り処
白楽天「寒流月を帯びて澄めること鏡のごとし」
About 私たちについて
豊かさとは何かを思考し、実装する場所
東粟倉は「修験道」の山里です。7世紀に役小角(えんのおずぬ)が後山(うしろやま、岡山県の最高峰で標高1.344m)に入り、修験道を開いたと言われています。奥の院は今も女人禁制。役小角の命日とされる9月7日と翌8日には「柴燈大護摩法要」が盛大に行われ、全国から集まった修験者が、般若心経を唱えながら、錫杖を打ち鳴らし、法螺の音を山間に響かせています。
また、東粟倉は「たたら製鉄」の山里。江戸時代には国内の8割以上の鉄が中国山地で生産されていました。東粟倉と近隣の西粟倉、千種でも盛んに作られていたのです。現在でも東粟倉のいたるところで、製鉄の際に生じる鉄滓(てっさい)が採集できます。そして、東粟倉では棚田がなだらかにつながる景観を見ることができますが、この傾斜は砂鉄を採取した鉄穴流し(かんなながし)によって生まれた地形なのです。
さて、国指定重要文化財「林家住宅」の元祖は、木曽福島の生まれで、木曽次郎左衛門源元房と伝えられています。元房31歳のときに、石田三成に誘われて関ケ原に出陣しましたが、敗れてこの地に逃れ、そのまま土着しました。元房は、大いに砂鉄を採り、田畑を拓き、豪農と言われるようになりました。元房60余のとき、さながら戦国時代の山城のように約1,600坪の屋敷造りを行いました。今から400年ほど前のことと伝えられています。
林家住宅は、近世における修験道の宿坊のひとつであった、砂鉄生産で財を成したとの記録がありますが、詳細はよく分かっていませんから、修験道にまつわる石造物の記録保存やたたら製鉄跡地の調査に取り組みます。鉄穴流しが形成したという棚田の保全にも取り組みたいところです。
12ヶ所あったとされる宿坊はどこにあったのか、鉄穴流しはどの範囲で実施されたのか、もともとはどのような地形であったのか、修験者は山師(鉱山技師)でもあったのか、修験と産業がどのように結びついていたのか、元房は何を考えながらこの土地に暮らしていたのか、現代社会において修験が意味するものは何か、興味関心は尽きません。
林家住宅を、東粟倉について学び、東粟倉との関係を結ぶ拠点施設Awakuraと位置付け、この土地の人たちとともに、この土地の未来を考えていきます。
一般社団法人創造遺産機構(HERITA)
Access 道のり
Awakura
〒707-0402 岡山県美作市中谷556
鳥取自動車道・大原ICより車で15分、智頭急行智頭線・大原駅より車で15分